2021-03-17 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第4号
そして、その次に、北里柴三郎を呼んで、どうやったら殺菌あるいは消毒というものができるのかということを検討してもらうんです。結局、その当時は、熱消毒、熱湯消毒ということになるんですけれども、それでどのぐらいの効果があるかということを北里柴三郎に調べてもらいます。
そして、その次に、北里柴三郎を呼んで、どうやったら殺菌あるいは消毒というものができるのかということを検討してもらうんです。結局、その当時は、熱消毒、熱湯消毒ということになるんですけれども、それでどのぐらいの効果があるかということを北里柴三郎に調べてもらいます。
感染研のルーツは、北里柴三郎博士がドイツから帰国した際、福沢諭吉翁の支援で創立された伝染病研究所です。伝研と略します。当初、私立衛生会附属でしたが、内務省、文部省、東京大学と移管され、第二次世界大戦前は日本最大の感染症研究所でした。最盛期には、感染症の基礎や治療法の研究を行うとともに、治療血清やワクチンの製造、検定、認可、販売まで事業範囲は広がったようです。
一点申し上げたいのは、日本は、今日、北里柴三郎博士のことを申し上げましたけれども、最初に微生物学というのが日本に入ってきたために、その前に実は衛生学ということで、病原体は分からないけれども、例えばコレラであって、それを上下水道をきちんとしていくとコレラが防御できるというのは、イギリスでも行われましたし、ドイツなんかでも行われたわけです。
そして千円札は、これは二〇一九年ですからこのコロナ禍前ですけれども、北里柴三郎さん、近代の医学の父と言われる方を千円札にされるという状況になります。私たちの、今度の二〇二四年からの新一万円札、五千円札、千円札は、日本の資本主義の父と言われた渋沢栄一公を一万円札にされたということもございました。
今、渋沢栄一のお話をしましたけれども、渋沢栄一、津田梅子、そして北里柴三郎さん、この三人の方が新しい紙幣に、これから二十年間、コロナ後の世界を、毎日その紙幣を見ることになります。麻生先生からの日本は大丈夫だとの力強いメッセージを毎日見る紙幣になろうかというふうに思います。
そして、細菌でも、例えば北里柴三郎さんは、ペストという、今よく話題になる、本当に黒死病としてヨーロッパでたくさんの死者を与えたペストの細菌を発見したのは日本の北里柴三郎さん。そして、今、千円札でおなじみの野口英世さんも、黄熱病や梅毒の菌を発見もしています。
福沢諭吉さんから渋沢栄一さんに、樋口一葉さんから津田梅子さんに、そして野口英世さんから北里柴三郎さんにというようなことでございます。
五千円券につきましては、これは女性という話が、前回の樋口一葉のときからの話だと思いますが、初の女子留学生であり、いわゆる女子高等教育に尽力をされた津田梅子というのを選ばさせていただき、千円券につきましては、これは、ペストの発見者とも言われる、日本の細菌学の父とも言われる北里柴三郎先生を選ばせていただいたということであります。
特に私なんかは、物心ついたときから一万円札は福沢諭吉先生のものを使っており、慶応大学出身の自分としてはちょっと寂しい気もいたしますけれども、そういった新紙幣の肖像が渋沢栄一、津田梅子さん、そして北里柴三郎さんというふうになりましたけれども、この肖像画の決定権は財務大臣にあるということでございますけれども、どういったお考えでこの三人にされたのでしょうか。大臣に伺います。
肖像につきましても、渋沢栄一とか津田梅子とか北里柴三郎とか、いろいろな、よく学校の教科書で出てくる顔で、先生たちの世代だと、渋沢栄一なんていっても知らない人が多いのかもしれませんけれども、私は、あれの孫と学校が一緒だったので、あいつのおやじが渋沢栄一かなんて思って見ていた記憶があった。そのころは吉田茂の孫といってよくいじめられましたので。大体、偉いやつの息子というのはみんな迷惑していますので。
今回の新しい日本銀行券の肖像につきましても、その考え方を踏まえまして、先ほど大臣から御答弁もございましたように、新一万円券は日本の経済近代化の最大の功労者と言われる渋沢栄一、新五千円券は近代的な女子高等教育に尽力をされた津田梅子女史、新千円券は日本医学の発展に貢献した北里柴三郎博士としているところでございます。
三ページ目、こうした医療分野の開発研究のパイオニアは北里柴三郎博士でありまして、明治二十三年にジフテリアの抗血清療法をベーリングと一緒に開発しています。基礎研究から臨床への応用が成功した極めて有名な例であります。 この当時は、四ページ目見ていただきますと、研究所で製造から販売までしておりました。
例えば世界を代表する北里柴三郎、こういった方々も山間の地域から出ていったわけであります。教育イコール金、収入ではありませんけれども、しかし、少なくとも必要最低限度の経済的なバックアップ体制、水準は必要であるということであります。 そういう中で、昨年、突然菅総理の口からTPPという言葉が飛び出しました。
明治時代には、我が国において、医学の近代化を目指して、北里柴三郎、志賀潔、野口英世などの卓越した学者が輩出され、ペスト菌、赤痢菌始めいろいろな病原菌を発見し、サルバルサンなどの化学療法剤を作り出して世界に貢献してまいりました。
医科学研究所は、ここに見えているところがそうですけれども、港区白金台にございまして、明治二十五年に、ドイツから帰国しました北里柴三郎を福沢諭吉が援助する目的で私立伝染病研究所としてできましたが、大正時代に文部省を経て東京大学に移管されまして、現在では医科学研究所ということで、感染症以上に広く、ゲノムでありますとか幹細胞、そういったような広い研究所として機能しておりますが、全国で今、大学附置研究所としては
一人は北里柴三郎博士で、コッホの下に血清学を学び、そしてペストについても、明治の二十七年、香港で大発生したときは、自ら、自分が六人と一緒、まあ助手も連れていき、三人がかかって一人が死ぬ、そういう中で対策を立ててくれた人だと思いますし、もう一人はそれを後押しした後藤新平だというふうに思います。何といっても、ペストとコレラを減らすためにはやはり公衆衛生が非常に必要です。
小国町は、近代医学の父と言われております北里柴三郎博士の出身地で、博士は、自分の体験から、学習と交流ということを強く小国町に博士の遺志として残しております。それを活用しました学びやの里づくり、そういう中での町民の方の研修、町外の方々の研修、交流というものに努めていっております。そこがいわゆるツーリズムの中心的な場所であり、またソフトの事業の展開の場所になっていっております。
たちまちにして、長岡半太郎先生とか北里柴三郎先生というふうな世界的な評価を受けた科学者が次から次へと生まれてきたわけでございます。その次の十年、二十年後ぐらいには、外国で勉強をして日本に帰ってきて、みずから新しい研究室をつくり、これを主宰して研究を始めることになるわけでございますが、そういう方々の中からまた世界レベルの仕事が続々とあらわれるようになってきているわけでございます。
海外へ行ったときにはもう既にほぼ第一線に追いついていますので、その意味では、当時の大学に入ってきた学生たちの優秀さというのは、例えばこれは医学の分野ですけれども、北里柴三郎が、必ずしも日本の医学部では最もブリリアントな学生ではなかったにもかかわらず、コッホのもとに留学して間もなく、コッホがドイツ人の学生に、論文を書きたかったら北里を見習えと言うぐらいに、見事なドイツ語で見事な研究成果を上げ始めるわけですから
この屋内人エスキー場を中心としたリゾート開発であるとか、あるいは人づくりの面におきまして、たくさんのリーダーの方たちが生まれてきておりますので、さらにそういうリーダーに活動の場、あるいは勉強の場を与えるための諸施策であるとか、また、小国町、北里柴三郎博士、近代医学の父、あるいは世界を代表する細菌学者でございますけれども、やはり博士の遺志を継いで学習の場あるいは健康づくりの場として学びやの里という構想
○国務大臣(竹下登君) これも感想程度になって申しわけありませんが、先日利根川博士がお見えになりまして、そうしたら北里柴三郎先生の話が出まして、本来は、自分よりも本当はもっと古い時代に北里柴三郎先生がこの医療・生物にかかわるノーベル賞はもらわれるべきであった、こんなことを言っておられまして、なるほどそうしたすばらしい英知というものは日本に存在する。
ここにございます北里柴三郎伝、この北里先生に関するところの問題であります。北里先生が 内務省より貸下を受けた芝区愛宕町の地所に研究室及付属病室を建てることとし、其の設計成り明治二十六年五月将に工事に着手せんとした。然るに端なくもここに一大難問題が生じて来た。其は区内に伝染病研究所の如き危険なものを設立させてはならぬと芝区民多数の猛烈なる反対運動の起ったことである。
これらを私ども調べてみると、これは北里柴三郎さんがペスト菌発見者の一人であるとしても、正確なる記事では私はないと思う。ペスト菌は明治二十七年香港における流行の際に、わが政府から派遣された北里及びフランスの医者エールサンによって発見せられ、青山博士は病理を調査した、こういう記録が世間の定説でございます。百科辞典その他にもこのことが書いてあります。またわれわれもそれらが正しいと思う。